【読書記録】娘のトリセツ(著者:黒川 伊保子)|父と娘の関係だけではない本

橘 玲さんの「女と男 なぜわかりあえないのか」を読んでいた時の仕事中に。

なんでかは覚えてないんですが、2022年に投稿されていたサライの「「話の呼び水」で相手からことばがあふれてくる【娘のトリセツ】3」という記事が流れてきました。

試しに読んでみると、「娘のトリセツ」から一部を転用したもので。

男性と女性の脳の違いや女性の脳の働き方について、難しすぎず、簡単過ぎずちょうど良いバランスで書かれていました。

「娘のトリセツ」という本の存在は知っていたものの、タイトルから「読まなくて良いか」と思っていたんですが。

この内容に興味をそそられてしまい、今回読むに至りました。

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繰り返し読む「トリセツ」

サライの記事を読んでいた時にも思ったことなんですが。

この本で初めて黒川さんの著書を読み、非常に読みやすいことに驚きました。

興味を持続しつつ、次々と読み進めることができる感覚というのが久しぶりでした。

ワンセクションごとに考えるというよりは、本を通して読んで、気になった箇所を繰り返し読み返すような、「トリセツ」という言葉がピッタリという印象です。

たまに、会話文でもないのに話し言葉が出てきても、違和感を感じないというのが不思議な感覚でもありました。

これは、著者の黒川さんがサブリミナル・インプレッション導出法という、語感に関わる潜在脳効果を見出した人だからかな?と思います。

少し調べてみましたところ(上記リンクから、説明しているサイトに移動できます)、発音して気持ちの良いことは、読んでも気持ちが良いという、脳の働きのことのようです。

ある意味、この黒川さんの研究内容を、「娘のトリセツ」を読むことで体感していたのかな?とも思います。

なので、この本自体は1日もかからずに読めてしまいます。

黒川さんは他にも「トリセツ」シリーズの本を出されていますが。

出版されているのが、漫画だったり本だったり、読む層に合わせたものになっているような気がします。

「娘のトリセツ」のあとがきの153ページから154ページに、娘がライフステージを迎えるごとにこの本を読んで欲しいということも書かれています。

つまり、一度読んで納得して終わるのではなく。

繰り返し読むことで、この本の意味が出てくるのでは?と思います。

読む層に合わせて読みやすく構成することで、まさに「トリセツ」という言葉にぴったりな本になっているんだなと。

素人ながらに考えた次第です。

他の本も読んでみたくなりました。

立場にかかわらず学びがある

「娘のトリセツ」の対象読者は、娘をもつ父親となっています。

これも「あとがき」にあるのですが、母親や女性にも読んで欲しいと、著者の黒川さんは述べています。

というのも、父と娘の関係性を軸としたコミュニケーション法について扱っているのが本書で。

そのコミュニケーションというものは、いうなれば異性間のコミュニケーション方法について書いてあるのと同じだと、自分は捉えました。

もっと言ってしまえば、気持ちの良い人間関係を築くために心がけられる事と捉えても良いかもしれません。

そこに、男性脳と女性脳の働き、遺伝子レベルでの生存戦略の違いに少し気をつけよう!という感じかと。

男性脳は、客観性の高いゴール指向型なので、「自分」ではなく「成果」を評価されたいという欲求がある。「成果」があってもなくても、同じ態度でいられると、モチベーションが上がらない。

<中略>

しかし、女性脳は「成果」ではなく「自分」を認めてほしいのだ。「成果」があってもなくても、きみが愛しいと言い続けて欲しい。

第3章 父は覚悟を決めなければならない P.120~121

このように、対象読者層である父親(男性)が理解しやすい欲求と、相手である娘(女性)が抱いている欲求の両方を出しながら説明をしてくれている。

引用部分は「自我」に関わる欲求についての部分で、評価して欲しい対象の違いについて書かれていて、「じゃあどうするか?」というように文章が続いています。

ここで少し立ち止まってみると、評価がされたいという欲求は対象が違うだけで人間が持っている欲求ということがわかります。

誰かに自分の成果を評価して欲しいのが男性脳で、誰かに自分自身を評価してもらいたいのが女性脳という、「誰か」という部分は共通しています。

人間は社会的な動物なので、他社との関わりが必要であり、評価がなければ孤独感を感じることになると。

そして「娘の自我を刈り込むために」という形で書かれてはいますが、男女にかかわらず達する世界の見方がここなんだろうなと。

「世界は、私だけのものじゃない。世界中が私を見ているわけじゃない。世界から見れば、私は案外ちっぽけな存在で、いてもいなくても、変わらないくらい。もっとリラックスして楽しめばいいんだわ」

第3章 父は覚悟を決めなければならない P.122

たぶん、「いてもいなくても、変わらないくらい。」の部分までは、だいたいの人が到達して。

その先の「もっとリラックスして楽しめばいいんだわ」の境地に行けるかどうかが問題なんだろうと思います。

それが、誰かからの評価である承認欲求と自分自身の評価である自己肯定感のバランスでもあるんだなと。

続くセクションで。

「家」は、私のステージではなく、自分はパーツの一つにすぎない。けれど、重要なパーツであって、そのことを誇りに思える。

第3章 父は覚悟を決めなければならない P.123

とあったことから、自分の事・立場・置かれている状況というものを、正確に把握したうえでその事に満足するという感じかなと。

さらっと書かれているが、結構高度だよなぁとは思いますがー。

本の中でも描かれている「自我のコントロール」ができる状態であれば、この感覚を受け止めることができるということのようです。

そのための元になるのが、「娘のトリセツ」では父と娘の関係であり。

思いを巡らせてみると、こういった価値観を与えるとともに、させることができる大元の場所が家庭ということになるんだろうなと。

なので、この本にかかれているのとは違う意味かもしれませんが、覚悟を決めるきっかけとなりました。

親は、子どもが「自分の一流」になったら、心から喜んでやればいい。

<中略>

「世間が決めた評価軸」を、親は決して振りかざしてはいけない。

第2章 娘とのコミュニケーション術 P.80

⋯押忍!

学びの幅も広い

思ったよりも長くなってしまったので、ここはあっさりとにしようと思いますが。

自分が本を読むことの目的の一つに、自分が考えていて言葉にできていないことに近いものを見つける、というのがあります。

で、今回しっくり来たのが、「なぜ勉強をするのか」ということです。

自分の言葉で説明しようとすると、うまく説明できず。

学校という人が集まる特異な場、というのに終始してしまっていました。

学校でしか作れない友人関係もあるので、これで間違っているとは思いませんが。

学業が二の次になっているのが、少し気になっていたのです。

それがこの本の中では、「客観性の獲得」という言葉で説明されていて、すごいしっくり来ました。

一つのモノに対して、様々な味方ができ。

教科によってアプローチの仕方も異なります。

それを、教えるための専門の教育を受けた先生から学べるということが、勉強することの価値なんだなぁと。

とはいえ、進学など先生達の「成績」に関わりそうな部分の影響は拭えない気もしますけどね。

ただ、親という立場だからこそ、勉強の意味を「成績」以外の部分で伝えられないと、勉強したくない子どもにとっては面白みを持つことはできないようなぁと。

客観性の持ち方を教えるのは、モノの見方を変えてもらうということもあり、かなり難しい部分です。

それを、勉強や「社会的事案を話し合う」ことで、ストレスなく身につけてもらうというのが、ハッとしたことでもあります。

「社会的な事案」について子どもが話すところを想像すると、「何を生意気な」と思いそうで・・・w

ですが、そういうのを飲み込んで、それが子どもの価値観の中で見た見方であり。

親は自分の価値観に基づいて、その出来事をこう見る。

という、多様な価値観があることを教える場になると。

このようなことについて話すには、自分自身で一度考えることも大切ですし。

自分の意見を率直に伝えても良いという、相手の価値観を認めることの見本にもなるのかなとか。

本の厚さに対しての学びの広さに驚きました。

繰り返し読み返します

とりとめもなく書き始めるブログなので、いつも文章量がセクションごとにアンバランスなんですがー。

「娘のトリセツ」は、自分の頭の整理も含めて、扱いたい内容が多くある本です。

脳の仕組みや働きもそうですし、本能などの遺伝的な部分。

それに、社会学てきなものや心理学的な側面など。

様々な気付きを受けることができました。

今年は本を読む量が減ってしまっているものの、出会い運は良い気がしています。

とりあえず、5W1Hの問いかけにならないように、気を付けてるのが私ですw

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