【読書記録】論語と算盤(著者:渋沢 栄一 訳者:森屋 淳)|現代のことが書いてあるのかと思った

読まず嫌い・・・というか、学生の時の授業ぐらいでしか触れてこなかった「論語」。

それを、今の一万円札の肖像画となった渋沢栄一が噛み砕き、講演した内容をまとめたのが今回の本「論語と算盤」です。

2024年の年末ごろから読み始めて、年明けの1月の終わる頃に読み終えることができました。

「はじめに」を読み終えて、第1章を読み始めたあたりで「これは時間がかかるなぁ」と思っていたら、その通りになりました。

最近は1週間で1冊程度読み終えることができていたんですが。

なんだかんだ3週間ほど読んでいたことになります。

渋沢栄一が行動の信念として拠り所としていた論語を、現代資本主義とどの様に調和させることができるのか。

人として生きるうえでの正しさを、利益追求の社会の中でどのように護るのか。

今のことを書いているのか?と思えるほど、身近に感じられる本でした。

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読書力という問題

見出しにすると、この本の内容かと感じさせてしまうかも知れませんが。

あくまで、自分の問題です。

本を読み、ブログにすることを続けてまだ半年程度ではありますが。

どちらかと言うと、現状の自分の興味の方向を知るために読んでいる意味合いが強く。

じっくりと考えるような、哲学や思想に関する本を読まないようにしていたところがあります。

そういった本を読んだ場合に、のめり込んでしまい。

見識を広めるという、読書をすることにした目的から離れてしまうと思ったからです。

しかし、今回読むことにしたものは、自己啓発書に分類されるであろうとは思いますが、元にしているのが論語で。

しかもその解説を、現代資本主義の父と言われている渋沢栄一が行っていると。

少し前では読まないようにしていたものなのです。

ここ最近でベストセラーと言われているものを何冊か読むことがあり。

意外とスッと理解できたり、自分のポジションを守った状態で読み進めることを体験し。

その結果、何となく手に取る程度まで、敷居が下がったように感じました。

敷居が下がったというか、自分の本の読み方が変わり、少し難しい本に取り組む余力ができたのだと思います。

で、大河ドラマ「青天を衝け」から興味を持ち始めた渋沢栄一が著者ということで。

今更ながら読むことにしました。

本質は大正からも変わっていない

・・・と。

いつもなら本の内容を引用しながら、その部分について考えてみる書き方をしてきましたが。

この「論語と算盤」もベストセラーに数えられる本なので、そこまで内容に触れなくても良いかなと。

なので、この本の中で扱われている内容を自分なりにまとめ、書いて行く形にしようかなと。

正直に言うと、ピックアップするとこの本全体を取り扱うことになってしまうぐらい、考えたり共感できる部分が多かったからなのですが。

資本主義の暴走

まずとり上げるのは、資本主義の暴走です。

これまでに読んできた本でも暴走という言葉は使われてはいませんでしたが、資本主義に歯止めが効かなくなってきているという表現は多く見受けられます。

これまでに読んできた本は、ここ4〜5年以内のものが多いので、現代資本主義が抱える問題とも言えます。

資本主義は個人の欲望による利益追求を肯定し、その結果国が富み全体の利益につながるという仕組みです。

そのため、国など公共機関の役割は、その資本主義ではフォローできない部分を補う福祉機能が必要とされます。

しかしその福祉機能は、ある意味では資本主義の波に乗り稼ぎ出した人や団体の利益を、納税などの形で提供することにより成り立ることになると言えます。

なので利益を追求することが最善とされますが、それが行き過ぎると他の人の権利の侵害や社会環境の汚染など、様々な問題が起こります。

このような言い方はしていませんが、渋沢栄一は日本の資本主義の礎を築いたとはいえ、資本主義に内包される問題として、このような社会全体の利益を損なう恐れがあることを分かっていたようです。

そのため、個人が利益の追求を最優先にするのではなく、社会全体の利益を考えながら正しく儲けること訴えています。

正しく儲けるためには正しい行動を取る必要があり、正しい信念も持つことにより道筋が見えてきますが。

その拠り所として、渋沢栄一が選んだのが中国古典の「論語」でした。

論語

資本主義の利益追求のための暴走を食い止めるのは、そのシステムを使う人間の精神性や道徳にあると考えたのでしょう。

これはもっともなことで、道具は使う人によって素晴らしいものを生み出すツールにもなれば、人を脅かす凶器にもなります。

資本主義が社会の仕組みである以上、道具の一つでしかありません。

「論語」は聖人に数えられる孔子により編纂され、儒教という形で広まった考え方でもあります。

日本においても隣の国で生まれた思想なので、馴染み深い考えでもあります。

身近な教えは多々ありますが、基本的にはこの本の中で繰り返し登場する「忠」「信」「考弟」「仁」といったような、礼による立ち振舞を説いたものが多いというのが、自分の印象です。

自分は専門家というわけではないので、この本で読んだこととざっくりとした理解ぐらいしかありませんが。

どのような生き方が人間として正しく、共同体としての正しい人間社会を作るための考え方や行動指針を教えてくれていると思います。

この本でも出てきますが、それが道徳というものであり。

どの立場でも心がけるべき姿勢というものが説かれています。

それを今のビジネス的に言うと、Win-Winな関係を築くことだったり、はたまた近江商人の三方良しの関係を築くことであったり。

相対する人たちへの礼を持ちつつ、信念に従い正しい行動を取るということでした。

正直、学生時代の受験知識でしかなかった「論語」を急に身近に感じることになり。

結局、今現在の自己啓発書や人間関係の悩み解決系の本は、この「論語」の考えを現代の状況に当てはめて、翻訳してるんだなぁと思うことにもなりました。

もちろん「論語」を意識しているのではなく、そこから様々な変遷によって行き着いたところが今という感じだと思います。

まさに「温故知新」です。

この本の中で当時(大正時代?)の若者や教育の状況を嘆く言葉がいくつかありますが。

今の時代のことを言っているようにも感じ、本質的なことは変わらないんだなぁとも思いました。

やはり、「時代を超えたベストセラー」を読むというのは手っ取り早いことでもあるんですね。

これからのこと

人間関係というのは、社会で生きる私達にとっていつでも問題になるものですが。

これからは特に重要になると、自分は考えています。

様々な考え方や生き方が提唱されていますが、今特に多いと感じるのは、人間性の回復という内容だと思います。

効率的に生きるとか、シンプルに生きるという、新しく生まれた技術や仕組みを利用して自分自身を楽にする生き方の提唱よりも。

自分自身を高めるための考え方や行動の方法についてのものが増えたような気がします。

実際、情報技術が急速な進歩を遂げたことで、働き方や関係性の作り方にも変化が起き想像以上の拡がりを見せています。

それにより求められるようになったことは、直接のコミュニケーションだと感じています。

これは私の体感ベースでしかないので、全般的に当てはまるかどうかは分かりませんが。

少なくとも電話営業を受ける量が一時期よりも格段に増えたような気がします。

結果、人と会うことが増えていて、そちらに時間を割くことが増えたなと。

それが距離的な問題があればオンラインですが。

それだけでなく、現実的に会える距離であればオフラインでも増える・・・というか、どうせなら会うという印象です。

それもそのはずで、今まで必要だった作業量が減り本来使うべきだった、人間関係の構築に時間を使えるようになったからでしょう。

コロナ禍が開け、出社を求める企業が増えたというのがそのハシリだと思います。

そこでオンラインでは感じることのできなかった、直接会うことの効力を再確認したと言えるかもしれません。

しかも、その当時よりもより濃密な時間を当てられるように(気付かずに)なっているのではないかと。

今まで人間が作業としてやらなければならなかったことをやらなくて良くなりつつあり。

その結果、人間関係の構築という人間同士でないとできないことに、時間が使われはじめているのではないかと思います。

これは、これからAIやWEB3の技術が進むことで、より必要な作業時間が短縮され。

商談・面談・会話に時間を割くことになるんだろうなと。

だからこそ「論語と算盤」を読んだ方が良いと。

直感的に思ったように感じてきます。

多様性

「論語」が生まれた中国では、能力のある者を登用するという文化があったように思えます。

もちろん、中国の研究をしているわけではないので浅い知識だけですが。

有名な過去の人物は、大体放浪の末、生まれた国ではないところに使えているような気がします。

また、科挙という国家試験は有名ですし。

で、ここからは「論語」というよりも、「論語と算盤」について語った渋沢栄一の考えに共感したところなのですが。

・・・本の中に書いてあったのですが、付箋を貼り忘れてしまいどの部分か見つけられなかったので、簡単に書くと。

渋沢栄一がなぜ「論語」を自分の信念の拠り所としたかを説明している部分があります。

その時に引き合いに出されていたのが、孔子と同じく聖人に数えられている、仏陀とキリストでした。

それぞれ儒教、仏教、キリスト教という宗教にもなっていますが。

渋沢栄一は自分の信念の拠り所に「論語」を選んだが、仏陀の教えが良いと思えば仏教で良いし、キリストの教えが良いと思えばキリスト教で良いということを言っています。

その教えで言っている本質的なことが変わらないので、正しく学び取ればどれを信じ拠り所にしても変わらないからであると。

ただ、渋沢栄一が「論語」を選んだ理由は、他の2つと違い奇跡が無いからだと。

これは「確かに!」と思い、笑いながら読んでしまった部分でもあります。

が、実業家であれば現実的な見方をするであろう渋沢栄一らしいなとも、思いました。

この考えはとても大切だと思ったのが、今は多様性の社会だと言われているからです。

マイノリティの権利を認めたりすることで、個人が個人らしく正しくいきられるような社会を作るという考え方だとざっくり言えますが。

それが、なぜか攻撃的な方向に行ったり、差別的な方向に行ったりすることがあると見受けられます。

それについてどうこう言うつもりはありませんが、それで受け入れられたとしても、決して気持ちの良い関係性の構築ではないよなと。

自分の権利を認めて欲しいのであれば、他人の権利を認めるのも当然で、その衝突を解消するのが交渉であり話し合いです。

その本質が、社会を良くしたいとか、より良い生き方を追求したいというものに基づいていれば、それに対して反発する必要は無いはずです。

話し合いや交渉の場になるはずですから。

なにを選ぶかは自由ですが、やはり自分と違うものを選んだり、違うポジションを選んだ人も認めなければ、共生にはならないとも。

それで問題が解決できないから難しいんですが。

少なくとも、こういった本質を捉えたうえで自分のポジションを取りつつ考え続けることが。

大事なんだなぁとしみじみと思った一文でした。

・・・なのに、どこに書いてあったか見つけられないとかw

精神と道徳の教科書

全10章と渋沢栄一の逸話で構成されていた「論語と算盤」でした。

読み応えがあったものの、総じてみれば資本主義社会を生きる人の道徳の教科書かなと思いました。

渋沢栄一の入門書と言われているようですが、渋沢栄一に興味が無くても読んで損は無いとも思います。

様々な情報が溢れ、選択することで生きながらえる日々の中で。

それらをどの様に扱い、どこに注力すべきか。

そして、どう働き、どう生きるのか。

それを、ある意味日本人の感性に近いかたちで説明してもらえた気がします。

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