【読書記録】学校 行きたくない 不登校とどう向き合うか(著者:榎本博明)|変化の時代の渦中にいる
私事ながら、意外と不登校のお子さんを抱えている家族が身近にいます。
家族持ちの知人が少ない(元々、知人が少ない・・・)ながらも、3〜4人ほどいます。
思ったよりも増えているんだなぁと体感していたところ、今回の本「学校 行きたくない」が目にとまり。
どんなことが起きているのか興味が湧き、読んでみることにしました。
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当事者達も「分からない」
不登校の理由が個々で多様化するようになり、個々の事情の理解やそれに合わせた支援をする方法を考えるために書かれたのが本書である。
と、冒頭の「はじめに」で書かれている内容をまとめるとこんな感じかなと。
読み終えてから思ったことは。
内容もそうだし、部分部分で書かれていることについては理解できるし、納得もできる。
でも、そこからどうすれば良いのかはっきりしない。
ということでした。
本書でも解説されている通り、そんなに単純な問題ではないですし。
これまでの教育環境や、時代の変化によって物事が変化している中で。
学校という存在とそれを取り巻く、個人、家族、社会が変化しているのも当然です。
唸りながら本書をペラペラとめくっている内に目に止まった部分がこちらです。
「不登校を後悔している者の比率が不登校を肯定している者の比率の3倍となっている。」
第3章 学校にいかないといけないのか P.143
「最初に行きづらいと感じ始めたきっかけについて、「きっかけが何か自分でもわからない」という児童生徒が<中略>ほぼ4人にひとりがなぜ不登校になったのかわからないと答えている。」
第4章 自分の現状をどうとらえたらよいか P.146
学校に行きたくない、行きづらいと思うのは、生徒それぞれではあるものの。
その理由が分からないという生徒が一定数いて、その結果、後悔している元生徒も一定数いるという事実です。
問題解決は何が問題かを明らかにして、問題に対するアプローチを考え。
試行錯誤して解決を目指していくものですが。
その根本となる問題が分からないというのが、問題である。
というふうに捉えました。
で、このときに思い出したのが、日曜劇場で放送された「御上先生」の中でさんざん使われていた「パーソナル・イズ・ポリティカル」という言葉でした。
「個人的なことは政治的なこと」であるという、フェミニズムの標語らしいんですが。
自分の学校への行きづらさという個人的な問題に、社会構造に関係する問題があるのではないか。
というように考えてみることにしました。
実際に、本書でも生徒個人が抱える問題を出発点として、社会や環境の変化によって個人に影響する問題を提示し、それに対して周囲がどのような事を考え、行動できるかについても書かれているので。
そのような、生徒を支える周囲向けの本なんだなとは思います。
まぁ・・・自分の経験で書くのもあれですがー。
新書を読むなら漫画を読みたいですよね。小学生とか中学生の頃はw
5つの特徴
まずは、不登校が増えている原因と思われる5つの特徴について書かれている部分を洗い直しました。
P.43「なぜ不登校が増えているのか?」のセクションで書かれていますが、少しまとめてみると。
1.学校以外に学べる場や遊べる場が増えてきた
2.個性重視の風潮により、一斉授業のもつ説得力が低下。なのに、授業に差をつけることに抵抗がある
3.文部科学省の方針変更により、学校に行く規範意識が低下し、保護者の規範意識も低下
4.子どもたちの遊び方の変化により、学校が居心地の良い場所ではなくなった
5.レジリエンスがきたえられない第1章 学校に行きたくない、行けない子どもたち P.43~49 を参考にまとめました。
この5つの特徴の関係性について考えてみると。
まずは、4と5の関係です。
レジリエンスというのは、心の復元力のことで、嫌なことや大変なことがあって一時的に落ち込んでもすぐに立ち直る力のことである。
第1章 学校に行きたくない、行けない子どもたち P.48
という説明から、1〜4によって生徒個人に起きたことが、「レジリエンスがきたえられない」という状態であるという関係がみえますが。
結果、そのような状態で子ども達が関わることで、人間関係に問題が生じやすくなり。
問題が生じにくい少数グループが形成されやすくなった結果、「学校が居心地の良い場所」ではなくなってしまっているという状態なのかと。
で、それを加速しているのが、子どもたちの興味・関心を学校外に向けさせる1の状態です。
楽しいと感じたりワクワクするような場を学校から見出しにくくなっているのに、それをさらに難しくしている状況かと。
それを学校に戻すために、生徒の個性や自主性を重視した教育の風潮に変えたものの、個人重視のカリキュラムにすることへの難しさもあり。
風潮と実際の現場で行われていることの差が生まれることになってしまったのが、2の特徴かなと。
学校は集団で学び生活する場なので、100%を個々にすることは難しい場所でもあります。
なので、その中で本書でも「自己コントロール力」という概念が使われていますが、集団の中で果たすために良い意味で「諦める」ことができなかったり。
結局は個性を大事にされていないような感じがして、「自己肯定感」の低い不必要な印象を受けることになるのかと。
そこを良くも悪くも加速させてしまったのが、3の子どもを取り巻く大人達の意識の低下である。
というようなつながりで、不登校が形成されているのではないか。
このようにまとめていても、問題が複雑でなんとも・・・という印象ですね。
個人の変化、環境の変化、社会の変化など、スポンジのように吸収していく時期の子どもたちには、大きすぎる影響が各所にあるんだなと。
生徒本人、家族、学校を越えた範囲での様々な影響を感じてしまう特徴です。
誰が悪いわけでもなく
そんな事を漠然と考えていた次に思い出した箇所が、学校のメリットの1つである教育機能について書かれていた部分です。
先の予測が不可能な時代に突入してしまっている。ゆえに、将来の仕事に役立つ勉強をしたいといっても、そもそも何が役に立つかなど、そのときになってみないとわからない。
<中略>
幅広い教養を身につけることで、何か目の前に課題が生じた際に、さまざまな視点から検討し、頭の中にあるいろいろな引き出しから必要な知識を取り出しながら、自分の進むべき最善の道を模索することができる。
第3章 学校に行かないといけないのか P.122~123
引用した文章の最後の方にある「模索」というのがポイントだと思います。
子どもたちに限らず、社会の変化の速度により、「先の予測が不可能な時代」であることを体感しているのは、大人もそうでしょう。
試行錯誤しながら、最善と思えるものに向けて行動を起こしているのは大人も同じです。
えーっと、教養について書きたくなるところがありますが、それは置いときます。
黒川さんの「娘のトリセツ」でも取り上げられていることでしたし。
一言だけ描くと、特徴の「1.学校以外に学べる場や遊べる場が増えてきた」に関係したことは、子ども本人にとって耳障りの良いものだけ、ということでしょうかね。
話を戻して。
本書でも、これまで行われてきた教育やしつけについて、家族や社会が担ってきた役割についての説明があり。
いわば、日本の教育やしつけの「仕組み」だったものを理解することができます。
しかし、実はこの「仕組み」事態も「先の予測が不可能」な状態になっているということに気が付きました。
前のセクションで書いた特徴の「2.個性重視の風潮により、一斉授業のもつ説得力が低下。なのに、授業に差をつけることに抵抗がある」で書いた、風潮と実際の歪みがこれを表していると思います。
教育やしつけの仕組みが変わりつつある中で、その中で親が果たす役割が変わらない訳はありません。
しかし、自分たちが経験してきた事を、ある意味では学校に求めている部分もあると思います。
つまり、仕組みが変わりつつあるのに、子どもに取って身近な大人である家族の仕組みが変化の途上にあるとも捉えられます。
学校や地域社会が果たしてくれていた役割が縮小し、ある意味では家族が果たす役割が実は増えているという仕組みの変化が起きているということでしょう。
これまでに築いてきた「仕組み」が時代の変化に合わなくなり、どのように変化していくのか「予測不能」なため、本人の個性に基づき。
家族・社会・環境の「模索」が必要なのが今なのだと。
そう考えると、本書を読み終えてから考えがまとまらない理由としても納得できました。
まぁ、自分の考えたこの結論も「模索」の結果の1つでしかないんですけどね。
そこから考えたことは、環境を整えるという意味で、「同調圧力でもなく。世間体でもなく。親自身の尺度で、学校に行くことの社会的機能と教育的機能の説明を子どもにできること」というのが、必要な「模索」なんだと思います。
子どもはいくつになっても自分の子どもなので。
社会の仕組みにつまずいたときに、説明できるように用意しておくのは大切かもしれません。
「模索」し続ける
人生とは問題解決の連続で、その準備を常にしておくのが大切な心構えでもあります。
常にだと・・・疲れちゃいますがw
とはいえ、自分ひとりならまだしも、自分の子供にも影響があるのであれば、この準備には深い意味があると感じるでしょう。
冒頭で本書から引用した通り、現時点(本の出版は2024年)での不登校の実態と原因を知り、考えられる対策について書かれた本だと言えます。
自分が読んだ時点ですでに1年が経ち、時代は更に変化していることでしょう。
途中で書いた通り、生徒本人や家族、学校だけでなく。
社会も影響を与える環境でもあるのです。
社会を構成する私達一人一人も「模索」したいことだとも感じました。
まぁ・・・子供の頃、何してるか分からないおじさんに叱られたり、説教されたりしたのも意味があったのかなぁとか。
そんな事を思った一時でした。
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