【読書記録】世界はなぜ地獄になるのか(著者:橘玲)|受け入れつつ動じない心をもつ
2024年最後の読書記録の投稿となったのは、橘玲さんの「世界はなぜ地獄になるのか」です。
今年は2週間置きぐらいのペースで橘玲さんの本を読んだような気がしています。
自分のこれまでの本の読み方を変えてくれた作家さんでもあるので。
記事に投稿するようになった、今年を締めくくることになり、少し感慨深くもあり。
そんな悠長な心構えではいけない気もしてしまう本でした。
キャンセルカルチャー
現代に生きる人達がどう思うかは置いといて、今の日本はとても豊かな社会であることに間違いはありません。
マーケティングでニーズとウォンツという言葉がありますが、ニーズと言えるものは正直少ないよなと思います。
ニーズ(必要)なものはほぼなく、「より良いモノ」というウォンツ(欲しい)という方が正しい。
そんな風に、普段働いていて思い続けてきました。
で、基本的に生きるのに必要なものが揃ってくると欲しくなるのが、精神や価値観の権利のようなもので。
今は個々人が大切にしている価値観を、最大限保証しようとがんばる時代でもあるなと。
ざっくりと、それが多様性であったり、尊重というような感じにも捉えられます。
誰もが自分らしく生きることができ、同じ権利が保障されている状態です。
そして、その権利を得るために社会に訴える正義の運動が様々なところで繰り広げられています。
ここまでの流れだと、すごく良い社会になっていくように感じますが、逆に生きにくい社会になってきてしまっているのも事実です。
それが、本書のタイトルにもなっている「地獄」という言葉で表現されているわけですが。
その問題の中心・・・象徴の方が良いんですかね?
「キャンセルカルチャー」という「大衆の狂気」によって引き起こされているとして、次のように定義しています。
公職など社会的に重要な役職に就く者に対して、その言動が倫理・道徳に反しているという理由で辞職(キャンセル)を求める運動は、欧米では「キャンセルカルチャー」と呼ばれている。スマホとSNSの普及とともに2010年代半ばから急速に拡がりはじめたが、・・・(略)
PART1 小山田圭吾炎上事件 P.22
本書では「キャンセルカルチャー」がどのように生まれ、どのように「キャンセルの対象」が変化していったかを解説しています。
それが、橘玲さんが繰り返し著書で述べている「評判格差社会」という、スマホとSNSの普及というテクノロジーにより生まれ変化しており。
それらのテクノロジーを扱う私達人類の生物学的・遺伝的な限界により、起こるのが当然の状態であることも読み取れます。
正直、橘玲さんの一連の著書を一通り読んでおくことが、この本の理解につながるのではないかと。
「言ってはいけない 残酷すぎる真実」
「もっと言ってはいけない」
「バカと無知」
この3冊を読むことで、
「上級国民/下級国民」
「無理ゲー社会」
「世界はなぜ地獄になるのか」
の3冊での橘玲さんの主張を理解しやすくなると感じました。(このブログで記事にしたものは、各記事へのリンクをつけてあります。)
そう、少し読者である自分が驚いた・・・と言ったら失礼なのですが。
今回の本「世界はなぜ地獄になるのか」で感じたのは、他の本に比べると著者の橘玲さんの主張が多めだということです。
「無理ゲー社会」から何となく感じていたことでもあるんですが。
なので、「言ってはいけない」からの3冊で、ある意味では橘玲さんが考える、この社会の仕組みのようなものが説明されていて。
その説明を元に、現在起きている現象について新たな視点と共に紐解いている。
それらの視点や研究成果を理解して表現すると、こういうことが言える。
という評論の流れを感じたので、読むと理解が変わるような気がしています。
すこし話がズレたような気がしますが。
「世界はなぜ地獄になるのか」で印象に残ったのは、アイデンティティ融合と、資源の制約とトレードオフの関係のところです。
結局は帰属したいのが人間
「自分らしく生きる」というのは、個人的なことです。
しかし、「自分らしく生きる」ための自分を探すのは非常に大変なことです。
好きなことと得意なことがリンクしていて、しかもそれが生きるのに必要な分稼げるだけの経済的な価値を持っていれば、「自分らしく行きている」と感じるでしょうが。
ほとんどの人はそうではないと思います。
そして、この「自分」または「わたし」というものが、実は「他者」からの評価でできていると本書では述べられています。
徹底的に社会的動物であるヒトは、共同体に埋め込まれて進化してきた。アイデンティティは「わたしがわたしであること」などと定義されるが、この「わたし」は社会的な関係性の網の目のなかにしか存在し得ない。「わたし」とは。いわば他社の評価の総体なのだ。
PART4 評判格差社会のステイタスゲーム P.152
スマホとSNSの普及により、雰囲気のようなものであった評判が可視化され、格差を生み出すようになりました。
自分が評価されているかどうかの物差しが増えたことにより、自分の夢や希望といったものが評価されていないと感じることも増えたのでしょう。
そして、情報社会になり様々な主義や主張・価値観というものが流れるようになり、そもそも自分の夢や希望といったものを持つのではなく、見つける時代になったとも言えます。
その中で、自分よりも評判を獲得しているヒトや、自分が大切にしている価値観を代弁してくれているヒトを探し、そのヒトにアイデンティティを融合させることが起きています。
これが「推し活」で、現代の集団への帰属意識の現れであり、共同体の形であると。
そして、その用に帰属した共同体は自分自身であり、何かしらの攻撃や批判を加えられると、個人に対する暴力と同じ用に脳は処理するとのことです。
個人の評判を上げることよりも、その共同体や共同体を代表するヒトの評判を上げなければ、アイデンティティを保つ。
つまり、「自分らしく生きる」ことができないと言うわけです。
これが権利と絡むことで、同じ主義・主張を持ち権利の獲得を目指す社会活動になり。
一人では大きく取り上げてもらうことのできない自分の気持が、社会を動かすことに繋がるかもしれないと。
それが、熱狂的な信者のようになり、社会を騒がす原因になってしまっていると捉えられます。
もちろん、当事者達には非常に重要な問題ですし、批判する気もありませんが。
様々な社会課題が解決されるにつれ、課題がどんどん小さくなり。
当事者には大切だけど、どうでも良いと思っている人も多数いるという温度差があることを、本書の「PART2 ポリコレと言葉づかい」で説明されています。
となると、どんな活動にも専門性が要求されるようになっていて。
「知らないなら黙っていろ」という空気感があるのも、正直なところです。
正義に関する特定のテーマに精通している者(一般に「活動家(アクティビスト)」と呼ばれる)は、その問題にほとんどの時間資源を投入している。そうした活動家が、時間資源のきびしい制約に直面していひとたちに対して「正しい知識を持て」というのは、「自分たちが心理を独占しているのだから、なにも知らない奴は黙っていろ」というマウンティングを婉曲に言い換えただけだ。
PART6 「大衆の狂気」を生き延びる P.260
と、まさに本書で書いてあったことではありますが。
今では情報とコンテンツが溢れ、時間も重要な財産であり資源であると捉えられています。
その大切な資源をどこに投入するか?という問題は、情報化社会になってから様々な自己啓発本でも扱われている内容です。
つまり、どのコンテンツを消費し、どの情報を得るのか。
その先に、どの分野やカテゴリー、もっと狭くすればコンテンツ自体、の専門家になるかを決めなければならない時代に生きているとも言えます。
なので、専門性があるかどうか。
良く知らなければ、口を出す権利が無い。
というような雰囲気を感じもします。
ただ、これは社会正義の活動に限った話ではないとも思います。
私としては、各分野でそのような流れが大きくなり、ある意味営業・広報といった、専門性を翻訳してくれる役割を担う人たちが減っているような気もします。
ターゲティングが細分化され、興味が有るヒトだけ気づいてくれれば良いという、正しい行動が実はあんまり良くない状況を生んでいるかもしれないと。
翻訳家が増えると良いなと思いつつ、そこまで様々なことの専門性を高めるには時間資源が足りないのも事実ですが。
本書に書かれているように「マウンティング」を取るのではなく。
理解してもらう努力をしないと、良くはならないし、先に進みにくいよなとも思います。
結局、何不自由無く暮らしても、他者との関わりがあって、かつその関わりがある程度評価されなければ、有意義な毎日と思えることは少ないでしょう。
であれば、少なくとも理解してもらう努力という、コミュニケーションの重要性に立ち返る時期でもあるとも考えられます。
真正面から受け止める
本書の中で事例を元に考察が進められている中で、得ている人と失っている人の存在が分かります。
そして、失っている人達が自分の代わりとなる集団に帰属し、有る意味で失ったことや評判を獲得できていないことに対する、怒りの代替を行っているとも捉えられます。
その結果、感情的な反応が多くなり、議論とは言えないようなやり取りが増えていることになるのかなと。
さらに「自分らしく生きる」ために、自分の時々の興味や感情で複数の共同体に所属することにもなり。
一つの共同体で起きたことが、他の共同体にも波及し。
何とも言えない複雑な状況を生み出しているような気もします。
このような状況にいつ巻き込まれるかわからないからこそ、地獄であり。
しかし、その状況を利用し合理的に行動することができれば、天国にもなり得ると。
なので今の状況をあとがきで「ディスユートピア」という言葉で表現しています。
様々な情報が日々押し寄せるので、その中で自分の芯を固く持って生活するのは難しいこともありますが。
そのような情報や反応に左右されるのではなく。
自分の価値観で何が重要なのかは明確にし、その価値観に従った生活を遅れるようにして、合理的に優先できるようにしたいものです。
また、今の流れが起きるのはしょうがないことでもあります。
なので、その状況になることは真正面から受け止め。
前向きに「しょうがない」と諦めつつ、「そのうち解決できるだろう」と希望を持つことで。
ディストピアの中で自分のユートピアを見つけられるようになるのではないでしょうか。
そんな心持で、日々過ごして行きたいなと思いました。
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