【読書記録】もっと言ってはいけない(著者:橘玲)
なんとなくですが、世間がふわふわしているように感じています。
この記事を書いているのが2024年なので・・・そうですね、コロナ禍が開けて「ニューノーマル」という言葉が使われるようになってからでしょうか。
経済活動が活発になってから、約3年間の鬱憤を晴らすかのような日々が続き様々な事が動き。
地に足がついていない感覚とでも言いましょうか。
妙な期待感と焦りの中を生きている感覚です。
技術の発展により、うまく行けば日本が抱える課題を解決できそうですし、明るいニュースで頑張れば報われれて、結果を残す人々を両手で称賛するような。
まったく悪いことではないんですが、いざ自分の生活をと見るとそんなに何かが変わっているわけではなく。
それから必死に目を逸らそうとしている。
というか、社会全体が必死に今の問題や課題よりも未来や理想に目を向けさせようと引っ張ろうとしているように思えます。
そんな感覚でふらついてる気分の中で気になった本が、橘玲さんの「もっと言ってはいけない」です。
人種と知能の関係というセンシティブな内容を、淡々と統計的事実や研究成果を元に扱い、その上で日本人の性質を明らかにしています。
そのような事実を知った上で、これを知った私達はどうするのか?
ということを問われているように感じ、読み終わった今も考えています。
橘玲さんの本のタイトルはセンセーショナル
自分はあまり本を読んできてはいません。
このような記事を書いていてなんですが、ちゃんと読めるようになったのはここ10年くらいです。
小学生が読書課題で図書館の漫画じゃない本を、自分の興味で読んでいたのを見て、「すげーな」と思っていたような人間です。
なので、橘玲さんの存在を知ったのもここ2〜3年の事です。
最初に橘玲さんを知ったのは、「バカと無知」という本。
岡田さんのYoutube動画を見て、読んでみたくなりました。
実際に読んでみると、かなり面白くてですね。
今回の本「もっと言ってはいけない」もそうですし、「バカと無知」もそうですが。
目を引くし興味を掻き立てられるセンセーショナルなタイトルなのに、本の中身は事実と証拠を元に論理的に淡々と進んでいくというギャップが良いなと。
橘玲さんの本のファンになってしまいました。
なのにまだ読書記録で「バカと無知」は書いてないんですが。
読んだ結果が「1冊読んでも作者の事がよくわからないな」と感じてしまったので。
まずは、裏書きでも代表作に挙げられている「もっと言ってはいけない」を読んで見ようと思ったのです。
こういう本を読むときの姿勢
とはいえ、この本を趣味の本にするか、ブログで取り上げるかは正直悩みました。
というのも、自分はこの本で扱われるような遺伝学や生物学、心理学はニュースやちょっとネットで検索すれば知れる程度の情報しか持ち合わせていないからです。
そんな自分がこの本を取り上げてもなぁと思いましたが、読者っていうのは基本的にそんなもんなんだろうと。
読書感想文に近いような体裁もこのブログには持ち合わせたいので、取り上げて見ることにしました。
その時に思い出したのが、中学や高校の国語の授業で学んだ評論文の読み方ですね。
授業で扱われるような、一歩引いた俯瞰するような読み方を心がけるのが良いのではないかと。
というのも、基本的には興味深く面白い内容。
しかも、なかなか他の媒体では取り扱えないような知能差がなぜ人種や住んでいる大陸によって違うのかというものなので。
単純な自分は簡単に影響をうけてしまうのですw
なので、この本の1章『「人種と知能」を語る前に述べておくべきいくつかのこと」の中で挙げられている姿勢を、読み進める上での戒めとして心に刻みました。
世の中には統計的事実と定義を混同するひとがいる、それもものすごくたくさん。
<中略>
統計的事実を経験的事実(外れ値)によって否定することはできない。
これは典型的な誤謬だが、それとは逆に、「統計的事実の一般化」という誤解も頻繁に見られた。
<中略>
ヒトの脳は、直感的には因果律しか理解できないようにつくられているため、あらゆる出来事に蒸し器のうちに原因と結果の関係を探す。これが、自分にとって不愉快な統計的事実を定義と混同し、それを否定するために経験的事実を「ブラックスワン」として持ち出す一番の理由だろう。1章「人種と知能」を語る前に述べておくべきいくつかのこと P.38~39
ここに書いてあることは、一時期悩んでいた・・・というか、このような見方をしていて、言葉でうまく物事を説明できなくなった時期がありました。
なので、かなりしっくり来るとともに、この本で紹介される統計的事実や研究により実証され事実とみなせることなどは、まずはそのまま受け止めようと。
そんな心構えを作りました。
もう一つ、本を読み進めるのと、この記事を書こうと思った時に読み込んだ一部を。
差別的な表現は表現の自由を制限されてもやむをえないが、それは相手が不快に思うかどうかではなく・・・、「アカウンタビリティ(証拠によって合理的に説明できること)」で判断するのが”世界標準”のリベラルの原則だからだ。
1章「人種と知能」を語る前に述べておくべきいくつかのこと P.40
事実であろうがなかろうが、不快に思う内容というものは世の中にあふれています。逆もそうですが。
ですが、それが証拠に基づき合理的に説明できる事実なら、まずはそれを受け止めなければ議論にならないし、一人で行う考えることでも不毛な思考で終わるよなぁと。
この心構えを持ったうえで、この本を読もうと思ったわけです。
が、実際には他の本を読むのにもこの読み方は必要で。
本によって「そうだそうだ!」と意見がコロコロ変わっていたら、結局自分自身を惑わすことになりますし。
変わるのは良いとしても、それを自分自身で納得・・・説得ですかね。
できるようでなければ、それはただ流されているだけだと思うのです。
・・・という、多分作者の橘さんが予想していないと思いますし、自分自身もそこに気が付かされるとは思わなかった部分ですw
「そうなんだ!」で済ませるのはもったいない
ただ、そのように頭と心を落ち着かせることで、事実が紹介されている部分と、そこから橘さんが考察している部分を読み取りやすくなり。
そこから考えた結果、自分の糧になるのは「淘汰圧」と「咲ける場所に移る」というところだなと感じました。
一応、先にも書きましたが、自分は遺伝学にも生物学にも心理学にも脳科学にも精通しているわけではないので、この本で扱われているここらへんの内容についてどうこう言うのは、今回は避けておきます。
で、その自分の糧になる部分の流れでいうと、まずは進化が加速しているという事実があるということ。
・・・様々な事実が、進化が逆に加速していることを示している。これは遺伝がきわめて複雑な相互作用だからで、そこには自然環境だけでなく社会環境との相互作用も含まれる。・・・私たち現代人は遺伝と文化の「共進化」の産物なのだ。
3章人種と大陸系統 P.128
進化は生物が環境に適応するために起こす変化と学んでいますが、その中身が自然環境と社会環境による極めて複雑な相互作用の結果、今の私達の状態になっているということです。
単なる生活環境だけではなく、社会的動物である人間が作り出してきた環境の変化の過程も、現在の私達を語るうえでは考えなければならないと。
そしてそれは、種の保存の法則に則っているようです。
東アジアの稲作型ムラ社会では、複雑な人間関係が強い淘汰圧になり、それに対処できる高い知能(コミュ力)が選好された。
4章国別知能指数の衝撃 P.156
一文を引用しましたが、この文を読んだ時に「淘汰圧」という言葉が頭に残り、続く内容のキーワードになっていると感じます。
生存を脅かされる状態、子孫を残せなくなる状態が人間関係、つまり社会環境においても起きているということです。
戦争などの生命が関わる場面なら想像できますが、農業革命による普段の生活の変化がそのような「淘汰圧」を生み出すことになったと。
そのような社会的な環境の変化に対する適応と、「淘汰圧」が繰り返され現代に至る・・・とざっくり読み進めて理解した内容です。
そこから、日本人という人種の性質についての考察をした結果、日本人が取るべき行動としての示唆で本は締めくくられています。
・・・「ひ弱なラン」としてどのような人生の選択をするのかが、全ての日本人(東アジア人)に与えられた課題なのだろう。
もちろん、どのような人生を選ぼうとあなたの自由だ。6章「置かれた場所」で咲く不幸ーひ弱なラン P.238
全てをすっ飛ばして来ましたが、ここに至るまでに紹介される統計的事実や研究成果などは全て興味深いし、1つを取り上げるだけでも眠れなくなると思います。
それらがどの様に作用し、人種(人類)にどのような進化を促しているかを理解した上で、どのような人生を「あなた」は選択するのか。
という事が問われているんだと受け止めました。
特に不快に感じた内容はありませんし、ほとんどが「そうなんだ!」という発見の感覚で面白く読むことができました。
が、最後のこの問いを見て急にモヤっとしてしまい。
宙を眺めていた時に浮かんだのが、キーワードではないかと書いた「淘汰圧」という言葉でした。
遺伝の仕組みを中心にかかれているので、正規分布に従うという事を分かった上でですが。
人種ではなく個人単位で考えるとどうかです。
もちろん遺伝の影響はあるし、社会的な影響も様々受けるのは変わりません。
しかし、この場合には、経験的事実という外れ値が当てはまっても良いのではないかと。
正規分布に従うと言っても、学力と同じ様に、ある意味では個人の努力で正規分布上での自分のポジションは変えられるとは思うのです。
でなければ、「できるならね?」という語尾が含んでいたとしても、「どのような人生を選ぶか」という問いは成立しないのではないかと。
その外れ値になれるかどうかは、「淘汰圧」の環境に自分の身をおく選択ができるかどうか。
変化や不安定な状況になる可能性が有るところに身をおく選択をするのは苦痛が伴うことかもしれませんが、遺伝子は「淘汰圧」によって変わってきたのであれば、自分を変化させる方法としてありだと思います。
自分はあんまり競うことが得意ではありませんが、競争の仕組みという環境により良くなる仕組みというのは、現代の社会でもあります。不正競争防止法や、歴史で学ぶ共産主義の失敗などでわかります。
「その様な環境に身を置く選択ができるか?」として、「ひ弱なラン」という特性も持った人種がベースである私たちが、「咲く場所を選ぶ」つまり環境を選ぶ自由。
そして、「現代人は遺伝と文化の共進化」を環境によって成し遂げている。
遺伝の影響は無視できないが、環境を選ぶことによって外れ値になることができるのではないか?
と、自分は捉えました。
自ら進んで「淘汰圧」にさらされに行くことを選ぶのが賢いのかどうかは分かりませんが。
それでも、この本でいう「知能社会」であるならば、このことを知ったことでどの様な行動を取るべきか。
「そうなんだ!」で済ませるにはもったいないし、目を背けるのももったいない問いが残る本です。
これで良いのか?という疑問
本に対してではありません。自分のこの捉え方についてです。
本の感想なので、読んだ人それぞれで構わないとも思いますが。
考えることと行動を促されているような感覚で合っているのかなぁ?とは思います。
この本で挙げられている事実で、適度に諦めることができれば、心が軽くなって行動に移しやすくなる効果はあると思います。
ある意味、たくさんある選択肢を少し減らす事ができて、どんな環境を選ぶのが自分にとって良いのかというのを考える機会にもなるかなと。
が、まぁそれが作者の橘玲さんが伝えたかったことなのかどうかは分かりません。
しかし、個人に回帰している社会で、自己責任を伴う自由を行使しなければ、今の時代を楽しむことはできないんじゃないかなとも思います。
最後の最後でとりとめのない感じにはなりましたが。
現実、事実をしっかりと見ることで、地に足の付いた自分の選択を行うことができ。
それが今を生きるヒトには必要なことなんだとろうなと。
そんなことを思っていたら思考に引っ張られすぎてしまい。
色々と手につかなくなってしまった、駄目な中年おじさんが私ですw
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