バカの壁(著者:養老 猛子)|何度も立ち止まる勇気

前回の「脳の闇」に引き続き、タイトルは知っていたけれど読んでなかったシリーズです。
・・・シリーズ化するつもりもないので、これで終わりになるかなと。
個人的に養老さんの言葉で心に残っているのが、これからの社会についてのセミナーで。
「身体が丈夫じゃないと何もできない」というようなことをおっしゃっていたことです。
今回の本「バカの壁」の中でも、同様のことが書かれていました。
当たり前に考えていることを当たり前に考えるとともに。
そうではないという意見や考えも認めるということ。
そんなことを考えることができました。
知らない内に作られている壁
比較するつもりはありませんが、中野信子さんの「脳の闇」が人として抱える矛盾や思考停止の状態について書いているとすれば。
養老猛子さんの「バカの壁」は、社会としての思考停止状態に触れている本だと捉えられます。
本書は養老猛子さんが、話したことを編集した本とのことで。
考えさせられる内容の割には、スラスラと読みやすいものでした。
本書のタイトルでもある「バカの壁」というのは、誰にでも出来上がってしまう壁の事を指しているようです。
そもそも脳は興味のある情報だけに注意を向けられるようにできていて。
それ以外の情報を遮断してしまう。
これがいわゆる「壁」です。
結局われわれは、自分の脳に入ることしか理解できない。つまり学問が最終的に突き当たる壁は、自分の脳だ。そういうつもりで述べたことです。
まえがき P.4
頭の善し悪しや能力の問題ではなく、個人や社会に属する人としての興味や関心の方向性によってできてしまうものだと、理解しました。
分からないということを、分からないままにしておく。
考え続けることで、自分なりの「正解っぽいもの」ができる。
しかし、そのように考えることを放置している。
思考停止の状態になり、脳にとって楽な方向に流れている。
そして、知らない内に四方八方を「壁」に囲まれてしまっている。
という状態について、解き明かしている本であると感じました。
常識
私が感じたことで、「常識」や「普通」という言葉の難しさがあります。
言うのは簡単ですが、相手に理解してもらうことが難しい。
しかし、相手と共通のものであるという前提で使いやすい言葉で。
ある意味、これを出されると引くしか無いような印象を受けます。
なので、ある時から私自身は「常識」や「普通」という言葉を使うことをやめてました。
私が「常識」や「普通」であると思っていることと、相手が「常識」や「普通」であると思っていることに違いがあると感じたからですが。
これを知っているということが、どうやら「常識を知っている」ということのようで。
本書のP.22から、フランスの哲学者であるモンテーニュのことを上げて、説明してくれています。
なるほどなと思うとともに、それでも自分の欲を優先するために、相手に不快な思いをさせても良いということはどうなのかと。
・・・少し言葉が強いですね。
例えば、「眠かったから待ち合わせの時間に送れるのは当然。」のような。
本書の言葉を借りれば、これが「個性重視」の末路というやつなのかなと思います。
共同体が破壊され、共通了解が無くなった・・・という感じでしょうか。
そうなると、何を語って良いのか分からなくなり。
「常識」や「普通」という言葉を使うのをやめた頃の自分自身を思い出すことになりました。
しかし、そのような違いを受け止めることが、第一歩ということなんだろうなと。
「人として」に立ち返る
様々な壁に阻まれ、分からないことを分からないとせずに、壁の中の物が唯一確実なことだと捉えること。
これが、問題の土台となっている。
それを形作っている「あべこべ」について、脳、個体、社会から示唆をくれているのが本書です。
先程の「常識」や「普通」というのも、論点の一つでした。
本書の最後に、一元論の社会とその限界について語られていました。
いや、随所で、ですね。
わかりやすかったのが、一元論と一神教を重ね合わせていたことです。
「これが正義だ!」という考えは、「これが唯一の真理だ!」という宗教と代わりがありません。
しかし、科学が重視される現代において、「確実っぽいもの」はあっても「確実」とされるものは疑わしいのです。
反証の余地があることが、科学的な姿勢だというのは、ここ最近の読書も含めて理解できたところで。
このような考え方を受け止められる土壌が、多神教の国にはあるのではないかと。
確かに、唯一のものではないということを、土着的に理解する感覚があれば。
お互いの違いを認め合いやすい関係性であるとは考えられます。
となると、本書で書かれている通り、「人として」というところに「常識」というものは行き着くでしょう。
「人間であればこうだろう」ということは、普遍的な原理になるのではないか。
第八章 一元論を越えて P.203
私は「7つの習慣」を部分的ではありますが、タイミングを見て読み返しています。
その中で登場する心理学者のフランクルが本書にも登場して驚きました。
人間性心理学の重要人物で、収容所にいながら「人生の意味」について考え続けた学者です。
「人生の意味」をもたらすのは、共同体によるとしていて。
つまり、「人として」良いと思われる行動が、自分にとっても相手にとっても社会にとっても、プラスの状態を作り出す。
というのが、「常識」とすべき「普遍的な原理」であると。
欲や損得、周りの人とか、社会がどうとか。
そういうものに立ち向かう前に、自分自身の「人として」というものを見つめ直さないとなと。
そして、自分と相手の違いを理解し受け入れるとともに、より良くするための議論ができる健全な社会を目指す。
それを、身近なところから取り組めるように、考え続けなければならない。
そのような「知的労働」を怠ってはいけないんだなと。
そして自分を変える
正直、一言で言えば「違いを認め合い、受け入れられるように、自分を整える」ということなのですが。
そのためには、分からないということを知り、学び、自分の見える景色を変える努力が必要でもあると思うのです。
なので、一言であらわすには難しいなと。
まとまっていないまま、今回の読書記録を書き始めてしまいました。
AIと壁打ちしてから書けば、もう少しまとまったかもしれませんけどね。
考えられることが多いというか、考え続けなければならないことが、本書で提示されていたとも思うので。
何度も考えるために立ち止まる勇気を持つこと。
これが、大事なことなのではないかと思います。
知的労働というのは、重荷を背負うことです。
第八章 一元論を超えて P.200
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はじめまして、「ぽんぞう@勉強中」です。
小企業に一人情報部員として働いている40代のおじさんです。IT技術での課題解決を仕事にしていますが、それだけでは解決できない問題にも直面。テクノロジーと心の両面から寄り添えるブログでありたいと、日々運営しています。詳しくはプロフィールページへ!














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